【爺さんのたわごと】「しかた さとし」と「関口鉄夫」のこと

世のかの偶然は面白い。「しかた さとし」は繊維学部の学生の時から変わっていた。今は「月刊むすぶ」の編集長で全国各地の住民運動の取材や販売に飛び回っている。毎月福島を訪れて取材をして雑誌や単行本にして発行をしている。いつも財政難で、たまに近隣に来るときに夕飯に蕎麦を食べたりもする。彼のこだわりはすごい。放射能汚染と障がい者差別との関係のこだわりはすごい。コロナワクチン接種の危険性の指摘は今後の人類に染色体異常を引き起こす可能性を指摘し、実はコロナ感染は飛沫感染でなく、空気感染であることを実証し日本の感染対策が間違っていること暴いている。これらの本は非常に興味が持てる。

 彼の変わっているのは学生の時からだ。読売新聞の朝刊の配達をしていた。朝食が食えると喜んで、昼間は大学の授業がないときは塾の講師をして、様々な住民運動の人たちと交流し、障がい者の介護にもかかわっていた。その関係で当時の繊維学部の助教授主催の住民運動の交流会に参加もさせてもらった。障がい者の妻と子育てが忙しい中で彼が与える社会からの風が心地よかった。

 偶然にも「しかた さとし」と高校の同窓生の悪ガキの関口鉄夫が知り合いだった。彼は理屈っぽく良く教師を問い詰めていた。サッカーをやっていて体力にも自信があったが、正義感が強く、理屈にたけていた。信大の教育学部に進み自治会の委員長になった。たまたま教育学部で「橋のない川」の上映があるときに私は差別的な映画の上映の中止を求めて会場に行くと、関口が防衛隊で正面にいてお互いに顔を見合わせて「何でお前がいるだ」。教育学部を卒業し東京都の教員になったが、校長ともめて暴力をふるい、処分が出る前に退職をして郷里に戻った。関口らしいとおもった。地元に帰ってからは相変わらずの正義感から「長野県産業廃棄物研究会」事務局長として飛び回り、暴力団につけまわされ、家族を安全なところに避難させたて活動していたと聞いている。彼とはうまがあい、長大の講師もしていたので授業があるとき、事務所に顔を出して近況を語り合った。彼ががんの末期であることを「しかた さとし」から聞いたが、自分の体調が悪い時だったので会うことはなかった。もし飯山に行くことがあったら実家に顔を出そうとおもう。

 今も「しかた さとし」は京都にいて雑誌の編集活動をしている。毎月の福島詣で続いている。3.11東日本大震災の時は病床にいたので、福島に行っていない。支援も何もできないで済まないとの気持ちがある。若いときに福島に通ったがみんなどうしているだろうか。体調を整えて「しかた さとし」と福島に行ってみよう。

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